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Boeing 737-800に乗りたいP訓練生のブログ

現在ニュージーランドでパイロットの訓練をする若者のブログ

好きこそなんとやら

雑記 性格

自分がやっていてよかったと思うことの一つに英語がある。

こればっかりは本当に偶然だったと思っている。

結局物事、好きこそ〜〜〜って話なのかな、っていうことを。

 

 

自分は恐らく、「英語」が好きなんだろうなーと思う。

気づけば、小学で経験した海外旅行がきっかけで英語に触れたいと思い、中1ではじめて英語に触れて、何もわからぬまま中3まで来て、高校に入ると同時に不規則動詞(今でもこの名称は頭の中にある。笑)を必死に覚えて、高校入ってすぐのテストでかなりの得点を出して、「恩師」に出会い、英語のことをたくさん話し合い、教えてもらい、それをもうちょっとやりたい、と思い、外国語系の大学に進学をする....。

 

気づけば、中学の3年間、何やってたんだろうと思うくらい英語の成績は悪かったものの、高校になってそれらがズバズバ〜〜っと解決していき、楽しさを覚えていたように思う。

 

多くの人にとって、英語は生きていく上で必要かそうでないかと言われれば、日本に住んでいる以上必要はないと思うし、英語がわからなくて困ることはほぼ、ない。それに、英語を「教科」の一つとして見た場合、それらは高校で終わってることなんじゃないかと思う。たまたま、その教科の1つに自分が食いついて、やってきたという話だ。

 

食いついてやってきて、もうそれは「教科」ではなく、学問として学ぶ(こともあったが、専攻は厳密には”英語学”ではない。)ということもあったし、使えるから使ってきたという点でみれば、生活の1つになっていた。例えて言うなら、毎日仕事に出かけるために、駅まで2キロを歩くような生活をしていた。当初は「歩く」という意識でいたが、2年3年と続けているうちに、もう毎日やるようになり、それが「やっている」「つらい」という意識を飛び越えて、「当たり前」になり、それにかかる時間が「生活」の一部になれば、それはもう「生活」であると言えると思う。自分にとっての英語はもうそんな感じだった。「学ばされる」というよりも、日々目にしてそれを使うことが当たり前になっていて、だから「やらされている」とは思わなくなっていった。

 

 

だがしかし、今海外にいて、10月から航空の学校に入るという手はずになっている。同期になる予定の人も1人が既にクライストチャーチに到着した。彼は、入学要件の1つである"英語のテストの一定点数"を越えるために必死になっている。

 

彼を見ると、先にも書いたように、英語を学ぶことは誰にとっても当たり前じゃないし、やっぱり必要不可欠であるとは到底言いがたいのだと痛感する。更に、自分が走ることを嫌っている一方で陸上のトラック競技が好きな人がいるように、自分が好いている他方で、英語を嫌ったり、学びにくいものである、難しいものである、と感じている人もいるものだと分かった。

 

つまり、日本人にとって英語を学ぶことは容易いことではないのだと、わかった。

 

では、何故自分は「英語学習」が万人受けするものじゃないのに、引きこまれたのかを考えると、一番に思いつく要因は、航空とも関連している「海外に対する魅力」を感じたことにほかならないな、と。五感で感じるものすべてが自分が知っている世界とは違うという別の環境に、小さい時はとても魅力を感じていた。もっと知りたいと思ったし、もっとどっぷり浸っていたいとも思った。それを可能にするのが英語なんだろうな、と思ったことが中学〜中学終わりまでのモチベーションだったように思う。

 

高校以降は、英語を学ぶことそのものが楽しかった。複雑な文の構造を考えたり、ケースAとケースBの例文ではどういったニュアンスの違いが出てくるのか、とか、やはり言語を学んでいるだけあって、無数に「言い回し」があったり、「文構成」を考え出せたり、そういうものがとてもおもしろかった。

 

高校中盤から、大学終わりにかけては、やはり回帰した。

英語を学んでいる目的について立ち返ったときに、思い出したのは「海外を知る手段」としての英語で、それをもっと伸ばしたいと思ったのと、別の言語(つまりは日本語)でも海外を学んでいける場所は、と思うとそういう専攻の大学だった。大学選びに関しては両立できる大学を選んだ。

 

大学でもいろんな英語学習と、英語の活かし方、英語を使った講義、英語そのもの、といろいろ学んだ。そういうものを学んでいくうちに、英語は能力の1つだと思った。能力とは、例えば、100マス計算は確か成人で50秒程度で出来ると「はやい」1分30秒もかかると「やや遅い」とみられる基準があったと思うが、そういう風に、「やれば」伸びる、という人間誰もが伸びしろを持っている部分が「能力」だと思った。英語も同様で、やれば伸びる、やらなければ伸びない、じゃあやって伸ばそう、と思い伸ばしていくこともまた、苦痛ではなかった。

 

英語について色々書いてみたが、結局自分は英語が「好き」だったのだと思う。好きでなければ物事続かないな、と思った。

辞書で「好く」という動詞を調べると、「ある物を気に入る」「ある対象に深く執着する・熱中する」と書かれている。まぁ、それだけ熱中したり、執着するくらいの熱量があればあるほど、続くのも、当然か...とも思う。ややヲタク気質だったというか、物事深く追求するタイプだったというか...。

 

世の中、「好きこそナントヤラ」と言う。

意味は、好きこそ物の上手なれとは、どんなことであっても、人は好きなものに対しては熱心に努力するので、上達が早いということ /好きなコトであれば、誰に強いられることもなく自分から取り組むこと.... らしい。

 

すごく大雑把なまとめ方に終わるが、他人よりそういうことに熱量傾けられるだけの「好き」があったからここまで続けられたのだと思うし、たまたま、自分の「ツボ」に入って「ああよし、じゃあやってみよう」と思えたのだと思う。

 

自分は「好き」があればあるほど、詳しくなって技術も上達すると思う。それがなくて苦しんでいる同期を馬鹿にもしない。他人がもってないものを自分が持っているのであれば、それは分け与えるべきだと思うし、自分がもってなくて他人が持っているものは代わりに欲すると思う。「彼」は今非常に苦しい期間の中にいるかもしれない...が、頑張って欲しいし、自分ができることは今後もお手伝いができればと思う。

 

また、この「人の特性」、「個性」である「好き」の対象は選ぶことができないと思う。たまたま自分は英語だっただけだが、他の物事よりも活用はできている実感がある。これはとても幸運なことだと思う。

 

 

おわり。