Boeing 737-800に乗りたいP訓練生のブログ

現在ニュージーランドでパイロットの訓練をする若者のブログ

幸せとは。

幸せってなんだろうなぁ、青い空の中を白い雲が流れていって、ああ今日も生きてるなぁ。なんて感じて、それが幸せだったり。でも幸せってなんだろうか。

どうやったら感じることができるのだろうか。なんてことをぼちぼち。

 

 正直、「幸せ」っていうテーマについて言いたいことがたくさんあることもあり、何回かテーマに分けて書こうか。と迷ったり、切り口はどうしようか。と迷ったりしているので、支離滅裂しそう。

 

今回はひとまず「幸せ」って膨大なテーマのなかから、いくつか。

・コンセプト

・大学時代

・幼少時代 から絞って書こうと思います。

 

<コンセプト>

そもそも「幸せ」ってなんぞや、と思ったときに、自分の心にある欲求(〜したい、という表現を自分はよく使う)を満たすことが幸せだと思っている。過去の記事で「ハッピー」と散々言ってきたことも、これに当てはまる。自分の「したい」というステータスを「できた」に変えることができたとき、それは幸せだと言えると思う。

 

こんな単純なことできっと読者は「へー」としか思わないと思う。

なんで「幸せ」について書くか、というと、今の世の中、「幸せを追求することが難しい」とされていたり、「幸せがそもそも分かっていない人」が多かったり、「幸せを馬鹿にする」人も居たり、世知辛いなーなんて思うことがあったからだ。

 

幸せの追求が何故難しいか、と言うと。

過去、就活の時代に出会ったU氏が言うには「本来的に、したいはすべて出来ることで成り立っているが、したいという欲求を出来なくさせる何か行動や思いがあるから、できない。そしてそれらは自分が作り出している」という。例えば、会議中にコーヒーが飲みたいと思う。が、実際にそれはできない。会議に参加するという義務を守っている以上、当然不用意に出歩くことはままならない。そして最終的にコーヒーをGETし、飲むことができないからだ。至極当然なんだけれども、人は時としてこれを見失う。そして、ちょっとした自己喪失感に陥る。

 

例で出したコーヒーを飲む、なんて人生という単位で見れば些細なことで、それができないからと言って人は恐らく死なないし、未来永劫悔いることも恐らくない。それが大きい単位で、10年単位とかで、○○がしたい、○○ができない、といった時も、たいていできなかった原因はこの「できない理由を自分が作り出しているから」が当てはまる。

極論、幸せとされることを得ようと思うと、幸せを追求すること自体は難しくなくて、むしろ、どうやってその「障壁」や「障害となる思い」を壊すか、が課題となる。

 

...と書いたところで、コンセプトだけで1500字とか行きそうなのでひとまず。

 

 

<大学時代>

前にも書いたかもしれない。が、自分の友人に"ゆってぃ"という女の子がいる。同じ札幌出身で、同じ大学の出身だった。目指すところはまったく違って、彼女は人と関わる仕事がしたい、人と長く付き合っていたい、と考えていた。自分の就職活動の像といえば、彼女のようにしっかり自己分析できて、馬鹿正直で、コネクションがたくさんあって〜という感じだった。自分は外部からの評価ではなく、友達という間柄で見た時に、本当に成功している人のうちの1人だなと思った。

 

ゆってぃは、最初は外資系航空会社を目指していた。自分がしてきた陸上を活かしてコーチというアルバイトをしていて、そこで気がついた人とぶつかる、人と接する、人を変える、ということに人生をかける価値があると思っていたからだ。人と接することができて、人を満足させるんだったら、航空。そして、最高峰と言われる外資系の某航空会社を目指した。が、気づいた。人の役に立って、もっと人を変えて、良い方向に導けることがしたい、と。そうしたときに、良い所まで行ってた航空会社を蹴って、最終的には人材系の会社で人の転職を支える会社に入社することに決定したという。本当にやりたいことを見つけた彼女は、今どうなってるかは知らんけど、忙しそうに目の前のことに本気でぶつかって、仕事も覚えて、やりたいことをやる努力をしているんだろうなぁ、なんて思う。最初から何にも囚われることなくやりたいことができる会社に入った彼女は恐らく転職なんて考えないんだろうな、と思わされる。他者がその人の入った会社を見て・ではなく、他者(自分)がその人を見た時、その人自身がいかに満足しているかを見た時の客観的な評価で、「成功した」と言えるんだと思う。

 

とゆってぃについて熱く書いてしまった。彼女は本当にすごかった。大学を自分のしたいことができる場所に変えていったし、自分に必要なものを大学で見つけて、やるべきことはやってたし、そういう人たちも見つけていた。知り合ったきっかけはとても些細なことだけど、知りあえて良かったと思うし、見習いたいと思う人のうちのひとり。

 

彼女は、航空会社から人材系の会社を見ていくうちに、最初とても魅力を感じていた会社があって、それが大手リ○ルート系列の会社。当然やっぱ狙うは転職を担う系列の会社だった。最終的にはそこには入らなかったけど。

 

馬鹿みたいに、一時そこのコーポレートメッセージ、"follow your heart" を口ずさんでた。やっぱり人を変えたいとか、思っているだけあって後輩の就活相談にもかなりの数、乗っていたし、自分も何度か相談したことがあった。でもそこで言われたのは、「follow your heart」 何をすべきか、しなくてはいけないか、ではなく、"どうしたいか。"をとことん突き詰めたら答えは出る、と。別に、そこの社風を推したりとか、こういう正解がある、と教えるのではなく、答えを知っているのは自分で、それを見つけるのも自分で、ただそれを見つける「方法」は、自分が「どうしたいか」だ、と言う。

 

何故これについて、グッときたのか、今は少しおぼろげ。だけども、自分の気持ちに正直になって今何を考えて、どうしたいか、どうなっていきたいか、を常に問い続けることは、自分の「幸せ」を求めることに繋がるのだと、就活のときに学んだ。就活に限って言えば、その方が答えは出るし、やっぱり自分の周りにも居た。「内定」を取るのにちょっとだけ、やっぱり興味ないんだろうな、っていう業界とかも見て、で内定して、内定したから、後付けの理由を考えているような同期が。そういう人たちの目は、どうしてか、やっぱりうつむき気味というか、正直になれていないようなそんな気がした。

 

何か迷った時には、「どうするべきか」ではなく「どうしたいか」。コトに善悪はあまりないと思っている。テロとか、人に迷惑をかけるようなことを除けば、自分が思ったことはそのまま行動に出せば良いと思う。何か震災が起これば、ボランティアをするのが自分の善意だと思えばやればいいし、そんなことしても現地の人が困るだけだと思うならしなければいい。人がどうこう、世間がどうこう、周りからの評価がどうこう、それだけで左右されていては、本当に自分が「これでよかった」と思える答えは見つからないと、そういうことを知った。

 

<幼少時代>

自分は小3のときから「和太鼓」という楽器を演奏するチームに加入している。今はもう加入しているのか危うい。大学でも当然遠隔地。練習に参加できるはずもなく、行かせてもらっていたのは、大学の冬春夏休み。アルバイトをしていたときはたま〜に。という具合。

 

なんとなく。その時は当然考える頭もないバカヤローだったので、理論よりも先に答えがきていた。「和太鼓というものをやってみたい」とやり始めて気づけば15年?も経っていた。

 

親もずっと続けさせてくれたのは、きっと悪い影響があまりなかったからなんだろうなと思う。人と関わることを続けられるし、先輩からマナーを教わるし、何より何かひとつのことをずっと続けることは難しいことがずっと続いてるし、適度(時には激しい)運動だし...。

 

うちの家に関して両親のなかで父親の権限もなければ威厳もない。母親がロイヤリティを持っているので、家のことはほぼ母親が決める。そして自分の和太鼓も母親に相談して「いいよ」という一言をもらってやらせてもらった。何故やらせたのか、を聞いたことはないが、多分。母親の父親、つまり自分からみれば「じーちゃん」はとても厳しい人で、と同時に、頭も堅い人だった、らしい。偏見と独断だけで物事を決めつける性格で、「やってみればいいじゃない」という考えではなく「これはこうだからだめだ」「あれはあーだからだめだ!」と、やりたことをやらせてもらえる家庭環境ではなかったということ。

 

多分それを受けて、「じゃあ自分の子供にはやりたいことをやらせよう」っていう考えがずっとどこかにあったのだと思う。その考えの元、育てられた自分は、どちらかといえば、「やりたいことはやったほうが幸せ」という考えに育ってしまった。ある種、思惑通り。そして手のかかる息子になった。

 

親と、いままで生きてきた中で、やはり相談するべきことは幾度と無くあった。進学のとき、何か新しいことを始めるとき、何か決断をするとき。でも、それらがよっぽど悪い影響を与えると思わない限り、親は許してきてくれたと思う。そして同時に負担をかけてきた。

 

そんな親がいたおかげで、自分のなかにあった「やりたい」っていうのを見つけやすい環境にはあったと思う。親も多分、いまでこそ(当然働いてるし)お金もあるし、年齢もそこそこになって、休みも取りやすい環境になった。何か「したい」と思えることを見つけて、たくさんいろんなことをしているように思う。

 

<まとめ>

結果として、今の時代に何か決定的に幸せの追求を妨げる要因があるのかと言われれば、それはどうか分かりかねるけれども、自分が今まで生きてきた中で、「やりたい」と尊重して自分の心に素直になって生きてきた!という人たちをあまり見てこなかった。

 

どちらかというと、自分の周りに吹く「風」によって、自分がどこかへ流されて、流された場所で「まあいいか」と、着いたら着いたなりの生活っていうものをやってきたんじゃないかと思う。でも、幸せを追い求められる絶好の条件が揃っていさえすれば、今の時代はやりたいことがしにくい世の中でもないと思う。

 

何か自分の中にやりたいこと、そしてそこに到達するための苦難を受け入れて、それをも楽しんでしまうような人たちがかつて何人もいたし、表情が暗かった人がキラキラと輝いて明るくなった人も居た。やっぱりそういう人たちを見ててすっげーって思うし、そのほうが人生はやっぱり豊かだと思う。人が生きていく理由のひとつとして、こういうものを求める方が楽しい、というのは考え方の1つとしてありなんじゃないかと思う。

 

また別の切り口が見えたら幸せについては今後も書いていこうと思います。

 

おわり。