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Boeing 737-800に乗りたいP訓練生のブログ

現在ニュージーランドでパイロットの訓練をする若者のブログ

幸せとは。<塾の生徒のひとこと>

わたしの知り合いの方が塾の講師をされている。実際に話したり、行動を共にした期間はあまり長くはない。が、とても海外を知り尽くしているように思えるし、国際結婚もされている。

 

自分もやはり海外志向なのもあって、そして同じく動物が好きというのもあって、時間よりも、何かこう愛着じゃないけれど、「信頼感」を持てる方がいる。その方の一言より、幸せの追求を考えてみる。

 

 自分は今、エアラインのパイロットになるために、ニュージーランドにきている。エアラインのパイロットと、ニュージーランドがどんな関係が?と思うかもしれない。

 

エアラインのパイロット(と書くのも、空港に行ってチケットを買って乗る飛行機はあくまでエアラインの飛行機であり、それを操縦しているのがエアラインのパイロット。国を守るのは自衛隊パイロットだし、報道とか、捜索をするパイロットもいる。あえて区別するためにこう書く。)になるには、当然ライセンスが必要。ライセンスは自動車教習場のすべての課程を終えて、試験にも合格をしたときに発行されるのと同じスタイルで、必要な学科試験、必要な実地訓練・試験を経て、ライセンスを経て、初めてあの機体を操縦して良いですよ、という許可が出る。

 

自動車教習を受けた方ならご存知かと思うが、最初の難関は車を動かすことだと思う。そして、仮免をもらえるかどうかがかかった試験を受け...と流れが進む。飛行機も同じく、こういう流れで進んでいくが、初期の訓練を海外で受けたほうが圧倒的に安く済む。そういった経済的な理由でエアラインのパイロットを目指す人間は比較的国外に出る。その教育を受けられる国の1つとして、ニュージーランドがある。そういった理由で自分はいまニュージーランドにいる。

 

話を続ける。

 

自分は自分を分かってくれそうな人にだけ、「パイロットになるために今、行動しています」と言う。分かってくれない人は、ただ鼻であしらうだけかもしれないし、「どうせ無理」のようなニュアンスのことを放つかもしれないし、相手にもしてくれないかもしれない。

 

冒頭に述べた「塾の講師」の方は、同じ和太鼓のグループに加入していて、むしろそこで出会った。同じ舞台を経験し、同じ練習をして一緒にやってきた。彼女は自分よりもかなり年上、そしてお母さん世代である。だからきっと息子を見ている感覚かもしれない。

 

彼女には、すべて包まず「自分はパイロットになるためにニュージーランドにいって訓練を積みます」と言って日本を去ってきた。それをとても誇りに思ってくれたようで、とても応援してくれた。

 

日本で「パイロットになる」というと、以前にも書いたかもしれないけれども、なんかかなり持て囃される感じがして、とてもじゃないけど好まない。それもあって、人に目標を告げることを嫌っている。結局、理解を得られないっていうことは、相手が理解できないこと。相手の理解できないことをいくら伝えても、共有しようとしても、それは意味をなさない。そして適当にあしらわれる。それが嫌だから、伝えない。

 

パイロットと言えば。高学歴で。頭がキレて。目がよくて。英語が出来て。みたいな。でも、それは多分現実とはかなり違った想像図であることが容易にわかる。断言する。その像は間違っている。でも、そう「思い込んでいる」像っていうのはなかなか壊れない。

 

だけど、自分の周りにはそういう像を飛び越えて、「そういう目標があるのは素敵なことだよ。やりたいことをやれるのが今のうちだよ。20代までが限界だと思うから精一杯やってこいよ」と言って応援してくれる人が多い。そういう人たちにとっても、もしかしたらその染み付いた像っていうのは、ずーっと持っているものかもしれない。けど、そういうのを無視して、「この人はそういうのが欲しくて。」という感情を捨てて、自分がやりたいこと、突き進むことを応援してくれる。

 

さて、その塾の講師の方が、自分の話を塾の生徒にしたという。勝手に話してごめんね、と後で断られたけれども、その話をして誰かの気持ちが変わるなら好きに話してくれ、とお伝えした。

 

世の中には、「こうあるべき」という像を追い求めることだけが幸せじゃない。「こうあるべき」という線路から外れたって罪じゃない。「何をするべきか」ではなく「何をすることが自分にとってプラスなのか」と伝えたのだという。自分がパイロットを目指して海外まで来て、こうやって働いて、お金を稼ぎ、生活費を貯め、そして10月の入学に備えている人間がいて、将来は日本で飛び回る飛行機乗りを目指してる人間がいる。と。

 

普通の人間はもしかしたら「馬鹿じゃないのか」と思うことなんだろうか。1つは、パイロットっていう「選ばれた人間しかできない」みたいな職業を目指していることが現実とかけ離れすぎてるから。2つは、そんな確率の低いことを目指して何になるんだという安全志向が故に。

 

彼女は塾の生徒にどういう伝え方をしたか分からない。でも、少なくとも「正解」は自分が作るものであり、既にそこに存在しているものでもないし、誰かに与えられるものでもない、と説明したのだろうと思う。

 

そうすると、意外にも塾の生徒は「そうだ」と頷くことはしなかった。むしろ、パイロットなんて言うと、「夢見すぎ」とか、「現実離れしている」という旨の回答をしたそう。そして、逆に「夢は?」と聞くと、「サラリーマン」「会社員」と答えたのだそう。

 

彼女は、その答えをきいて「がっかり」したと言っていた。

 

 

この今抱いている、ニュアンスを直接的に誰にでも分かる形で、お伝えできない。するだけの能力がない自分を嘆いているんだけれども、なんていうか、ね。すべての人間がそうか、どうか、そう考えた方が良いのか、についてもよくわからない。時として、1億円を握りしめて日々何しようか考えるのが裕福だという人も居れば、1日あたりの食費が100円しかないどこか遠い大陸の国だったとしても、家族と一緒にいて、ご飯が食べられるだけ幸せで裕福だと答える人間もいる。だから、自分の抱いていることが万人に共有されるべきことかは分からない。

 

自分は他人の「幸せ」の基準もわからないし、スタンダードも何かわからない。自分は他人になったことがないし、自分の生きている環境は自分にしかわからない。

 

少なくとも、「やりたい」と思ったこと、一般に描く「夢」「理想」っていうものを追いかけている人ほど、自分は目が輝くし、キラキラするし、人間としても尊重したいと思える。それは良いと定義しても良いことなのではないか、と思う。

 

最後に、自分はすこしだけ彼女とFacebookを通して話をした。

日本なんて、結局軍国教育みたいなやり方でみんなが同一の価値観を持つように育てられてるし、「多様性」という言葉を使いたがる割には、結局多様化できていない。「あるべき」姿、から外れるとそれは「ダメ」で、あるべき姿煮近ければ近いほど、「良い」。そして、それは人のお手本になるほど昇華する、なんてね。結局「同じタイプの人間」を量産したいだけで、本当にやるべきこと、やらなければいけないこと、やりたいことの区別をも付けさせないで、人から尻を叩かれて「やれ」と言われたから「仕方なくやる」。

 

果ては、人から考えを奪う。「やりたいこと」を考えなくさせてしまう。それが今の日本で、そういう人間を大量生産するのが日本で、だから「サラリーマンが夢です」なんて言っちゃう。それがダメだと否定はしないけれどもね。

 

自分は、いろんな人に、いろんな理由で出来なくしていることをから脱却して、いろんな人がいろんなことを出来るようになってほしいと思う。

 

縛られて生きていくことに慣れた人が、その縛りを捨てて、勢い良く飛び出して、今必死に自分のやりたいことを叶えさせようと努力している友人がいる。彼女の話は置いといて...。

 

自分が最高だと思えることを、たくさんの人にやってほしい。

 

おわり。(多分次回へ続く)